社会学者としての私は、社会における病とジレン マについて考え、取り組んでいました。イスラームについての知識を広めるにつれ、私は社会の病は主に、不健康的で機能不全の社会的行動が原因であるという 結論に達しました。イスラームはあらゆる場面において最も健康でポジティブな方法を取ることに焦点を当てるライフスタイルであるため、それはあらゆる社会 においての社会的ジレンマに対する唯一の答えなのです。こうした認識と共に、私はイスラームが日常生活において実際的な価値のあるものだと判断しただけで なく、なぜそれが他の諸宗教と比べて非常に異なるのかを理解し始めました。イスラームだけが、人生のあらゆる側面における知識と導きを提供するのです。イ スラームだけが、肉体的・精神的・心理的・経済的な、人生のすべての局面における健康と幸せを達成することの出来る方法を提供し、イスラームだけが、人生 の明確な目的と意味を提供し、イスラームだけが、うわべだけでない、コミュニティにおける生き方とそこに対する貢献について示します。イスラームこそは誰 しもが必要としているものであり、まだそれを見つけていない人々が探し求めているものなのです。それは意義・目的・健康・幸福への道です。なぜならそれ は、私たちが必要とするすべての力の源泉である神へと続く、真っ直ぐな道であるからです。
私たちムスリムのライフスタイルがいかに包括的であるかということに、私は実際にムスリムになってからようやく気付きました。私たちが指示されている行いのすべてには、神を常に思い起こすという、1 つの共通した目的があります。自らの創造主を思い起こすということは、日常生活の中のありふれた行為のように簡単なことだと示すため、それは神による完全 な宗教の卓越性を示します。私たちが神を常に思い起こし、すべての行いを神に捧げることによって、それらは崇拝行為となることをイスラームは示します。そ れにより、私たちの活力、思考、行為はすべて不健康で無益な要因から離され、すべての善良なものごとの源泉へと集中させます。こうして私たちは神の御力・ 御慈悲・恩寵を常に求めます。神を思い起こすことにより、私たちは日常生活のあらゆる側面においてより良く、より強く、より健康的になることが出来るので す。
私にとって、イス ラームの側面の中にはある程度、理解の難しいものもあります。それでもなお、私は自分の人生に必要とされる変化を容易とし、善きムスリムとして依然、米国 に住むことを可能としてくださった神に日々感謝しています。中流階級の白人米国人として、イスラームの文化的側面の多くは、私と周りの人々が馴染んできた ものとは非常に異なります。実際、私が家族に改宗の事実を打ち明けたとき、彼らの疑問や心配のほとんど全てが結婚、社会生活、家族観などの文化的相違に関 わるものでした。彼らは私の神の信仰に関する信条や宗教的実践行為についてはほとんど気に留めなかったのです。私の家族・友人・同僚からは、ムスリムにな ることは必ずしも悪い変化とは見なされませんでしたが、それには多大なイスラーム教育を施すことが必要でした。私自身の教育に関してもそうですが、イス ラームの真実を彼らと共有することは、私たちがどれ程多くの知識を吸収出来るかには制限がないため、終わりのない作業なのです。そして正しい知識を広める ことは、私たちにとっての責任でもあります。
正 しい知識を得ることはムスリムの発達にとって極めて重要な要素であることから、日常生活におけるイスラーム実践の仕方を教えてくれた師匠を持てたことは、 大きな違いをもたらし、改宗によって経験した困難の対処の助けとなりました。何か質問のあるときに、誰か知識のある人物が近くにいて助けてくれることは非 常に素晴らしいことであり、すべての新ムスリムが努力して手に入れるべき環境です。イスラームは、キリスト教やユダヤ教が時代と共にそうしてきたような、 合理化することの出来る宗教などではありません。イスラームは預言者ムハンマドの人生と彼の教友たち、そして学者たちを通して神が私たちに示した明確な道 に、そのまま従わなければならないのです。
今 日、この時代、この社会では、私たちは表面上はイスラームに対して敵対心をあらわにはしないながらも、一般的な信仰の欠如から、ムスリムにとって有害な 人々からの絶え間ない試練から、道をはっきりと識別することは困難なことかも知れません。常に当然のように官能的な誘惑に晒されている環境に身を置くのは 容易なことではありません。しかし、イスラームの普遍的教えを応用することの出来る、博識で経験深い師匠の助けが身近にあれば、神がクルアーンで説明する ように、真理は過ちから明確にされるのです。このようにして、私たちはいかにイスラームを正しく人生に組み込むべきかを理解し、神の祝福を絶え間なく受け ることが出来るようになるのです。真の正しい知識を持つと主張する者を見極める審査は、彼らがいかにそれを自らの人生で生かしているかを見ることです。も しも彼らの行動が、彼ら自身の説く教えにそぐうものであったならば、はじめて私たちは彼らの指導を仰ぐべきなのです。
私 のイスラームへの旅は、まだ短いものではあるものの、人生を変えてしまいました。それは日ごとに全能なる神への感謝を深めさせます。神の慈悲の広さは、定 期的に額づき、創造主の御意に従う者にしか完全に理解は出来ません。これこそが私がイスラームを通して励んでいるものであり、ジハードの一種でもあるので す。それは、毎日のすべての瞬間における努力ですが、私たちは誰に助けを求めるべきかを知るため、それを苦とはしません。
私 はイスラーム以前の人生を振り返って、導きを求めるために取っていた様々な手段について考えてみました。それは、神がどのような存在なのかについて私が過 去に抱いていた色々なアイディアや、いかに神に近づくことが出来るのかについてなどです。真実を知った今、それらを思い起こすと、笑みがこぼれ、ときには 涙さえ流れてきます。イスラームを通して、なぜ信仰のない多くの人々が恐怖を抱えて生きているのかが分かりました。神なくしては、人生は恐怖に満ちたもの となり得ます。過去に同様の恐怖感を抱いていた私にはそれが分かるのです。しかし今、私はいわば究極の「自己救済プログラム」に入っています。それは、す べてを元来のあるべきところに据えてくれる道です。今、人生は意味を成しています。今、人生は筋が通っています。今、私はなぜ自分がここにいるか、どこへ 行きたいのか、どのような人生を送りたいのか、そして自分だけでなく皆にとって何が一番重要なのかを知ることが出来ました。私は道を未だ見つけ出していな い人々が、自分と同じように感じることが出来る日がやって来ることを願っています。アルハムドゥリッラーヒ・ラッビル=アーラミーン(全創造の主である アッラーに讃えあれ)。