ウマル・ブン・アル=ハッターブは、ムスリムのウンマ(国家)における第2代目の正統カリフで、信仰者の長と呼ばれた最初の指導者でした。預言者ムハンマドの逝去後、彼に最も近かった盟友であるアブー・バクルが彼の後を継ぎ、2年間に渡ってムスリムたちを率いました。アブー・バクルが自らの死期が迫っていることを悟ると、彼に近い友人や側近たちを集め、彼らの任務が終ったことを告げました。アブー・バクルは自らの後継者を彼ら自身で選出することを望んだのです。しかし、協議の後、彼に疑いの念を全く抱かないアブー・バクルの教友たちは、彼が選択してくれるよう頼みました。アブー・バクルはウマルを選択しました。
アブー・バクルの周りには、非常に辛辣で屈強な男として知られたウマルが人々に厳しくするのでは、という懸念が一部でありました。アブー・バクルは、彼にとってウマルこそが人々の中でも最適の人物であるという返答をしました。当初、マディーナの人々によるこうした反応もありましたが、ウマルは第2代目のカリフとして任命されました。彼は、自分の持つ展望を人々へと直ちに演説し、その統治を開始しました。ウマルは、人々が彼の強固な部分について心配していることを知っており、そのことについても語りました。
彼はこう述べています。「人々よ、私はあなたがたの諸事において統治するよう任命されたことを知りなさい。私の強固な部分については弱まったことを認知して欲しい。だが、抑圧的、また逸脱した者たちについては、これからも強固かつ厳しくあり続け、それら者たちの頬を地べたに押し付けてやろう1。また、私は自分の頬を地べたに押し付けてでも、敬虔な者を守りぬいてみせよう。」
それからウマルは人々に対し、彼は神が命じたもの以外には決して彼らの農作物や戦利品などから徴収せず、その収入は神をご満悦させるため以外には消費しないことを説明しました。ウマルは財政面における公正さの重要性はもちろんのこと、ムスリムのウンマに属するいかなる小さな単位の通貨であれ、その徴収法や使い道についてはやがて神によって審問されることを熟知していました。また、ウマルは人々への支給や収入を増加させ、国境を防衛することも告げ知らせました。
預言者ムハンマド(神の慈悲と祝福あれ)とその教友たちが、必死に築き上げた若きムスリム国家は、独創性に溢れていました。ムスリムの国庫からは、ウンマのすべての住民に対しての配当が支払われていました。急速に拡張を続けていた国家における政府の従事者であるかどうかに関わらず、その富は等しく配分されていたのです。それを制度化したのはウマルではなく、彼はただ先人の築き上げた慣例に従っていたのですが、収入の増加を約束したのは彼自身の提案によるものでした。
またウマルはムスリムの軍隊を「破滅」へとは派遣しないことを約束しました。つまりリスクが査定され、許容可能なものでない限りはそうしないということです。彼は兵士が長期間に渡って家族と離れ離れにならないこと、そしてもしも帰らぬ人となってもカリフは彼らの家族の面倒を見るということを約束したのです。ウマルは、指導者の役割とは人々の保護であると信じていました。
大統領や首相らがボティーガードに囲まれ、自らの権威を守るためには他人を踏みにじることをも厭わないような現代においては、こうした概念は非常に奇異に映るものです。ウマル・ブン・アル=ハッターブは、一大帝国の指導者であったにも関わらず、ボティーガードをつけることの必要性を感じることはありませんでした。彼はたとえ夜間であっても、一般市民のようにマディーナの街路を歩いていました。事実、彼は夜になると密かに見回りをしつつ、喜捨を配布していたのです。
ウマルによる統治期には、「灰の年」と呼ばれた時期があります。この年、ムスリムのウンマにとっての大きな試練がもたらされました。当時、干魃と飢饉が襲い、風が皮膚にあたると、それはまるで燃え殻が皮膚を焼くほどに熱いものでした。食肉、バター、乳は手に入らなくなり、人々は乾燥したパンの切れ端に油を塗って飢えをしのぎました。ウマルは、人々に供給されていないものは決して飲み 食いしないと誓いました。食品が市場に供給されるようになってからも、ウマルは値上げされたそれらのものを買うことを拒否しました。彼がこう言ったのが耳 にされています。「もし私が臣民たちと同じ試練を受けているのでなければ、どうして臣民たちのことを心配し、理解することができようか。」
ウマルは、その統治から1400年以上たった今でも、正義の人として記憶されて続けています。イスラームの正義、慈悲、思いやりといった原理に基づき、貧富の差、皮膚の色、権力の有無に関わらず、ウマルは統治する人々をみな平等に扱いました。彼は神によってやがて彼の行為が審問されることを常に怖れていました。彼は人々の中に、きちんと世話がされていない病人や困窮者がいないかどうか気を揉んでいました。ウマル・ブン・アル=ハッターブは、裁判官や総督の職務を欲していた者たちを任命したのではなく、ウンマの中の最も敬虔な者たちを注意深く選んで任命したのです。
ウマルは自らを一般のムスリムとして認識していましたが、歴史による認識はそれとは程遠いものです。ウマルは精神面・肉体面の双方で力強く、親切・高潔で、慎み深い生活を営みました。ウマルは彼の敬愛する預言者ムハンマドの志を受け継ぎ、彼の模範に倣い、彼の伝統を遵守させました。神の懲罰を怖れ、楽園を求めていたウマルは、その全存在をかけて、神のご満悦を得ることに身を注いだのです。ウマルは真偽を見極めることができ、ウンマの中の誰かが感じる痛みを自らも感じ取ることができ、誰かが神の崇拝に満足すれば、自らも喜びを感じたのです。ウマルは正統4代カリフの一人でした。現在においても、彼は強さ、正義感、愛情、慈悲における模範であり続けているのです。
Footnotes:1 これは当時のアラブ人たちが使用していた慣用句で、厳しい対応を示す言葉として使われていました。それは、他者への抑圧と権利の侵害は完全に認められないことを意味しました