自らが創造された目的に背くということは、人間が犯すことの出来る最も重い罪です。教友アブドッラーは、神の使徒に対して、神の御前においてどの罪が一番重大なのか尋ね、彼がこう答えたことを報告しています。
“神があなたを創造したのにも関わらず、かれに同位者を置くことである。”(サヒーフ・アル=ブハーリー)
神 以外の他者を崇拝することはアラビア語でシルクといい、それは赦されることのない唯一の罪であるとされます。もしある人が罪から悔悟することなく死んだと しても、神はその人物の罪を全て赦されるかも知れませんが、それはシルクを除いてです。これに関して神はこう述べます。
“誠にアッラーは、(何ものをも)かれに配することを御赦しになられない。だがその外のことは、御心に適えば御赦し下される。”(クルアーン4:116)
神以外の何者かを崇拝するということには、創造主の特質を被造物に付属させることが根本的に伴います。そ れぞれの宗派や宗教は、独自の方法でそれを行います。歴史を通して、少数派でありながらも非常に発言力のある集団が神の存在を否定してきました。彼らは創 造主の存在の否定を正当化するため、この世界には始まりがないという非論理的な主張をしてきました。彼らの主張が非論理的であるのは、この世界の観測可能 な部分においては始まりがあるため、全体においてもそれが当てはまると推論するのがごく理にかなったことであるためです。また、この世界の始まりの原因と なったものがこの世界の一部ではなく、それ自体がこの世界と同じように始まったのではないということも至極論理的なことです。この世界には始まりがなかっ たという無神論者による主張は、宇宙を構成する物質が永久であることを意味します。ここでは、神には始まりがないという特質が神の被造物に与えられている ことから、それはシルクの主張となります。歴史的に見ると、その主張にも関わらず真の無神論者は常に少数派でした。なぜなら彼らは本能的には神の存在を 知っていたからです。数十年にも渡る共産主義の教化にも関わらず、大多数のロシア人と中国人たちは神を信じ続けてきました。全能なる創造主は、この現象を 指摘してこう述べます。
“かれらは心の中ではそれを認めながら、不義と高慢さからこれを否認した。”(クルアーン27:14)
無神論者・唯物主義者たちにとって、人生には欲望を満たすこと以外には何の意味もないのです。彼らの欲望はそれ自体が神となり、唯一なる真実の神を差し置いて、彼らはそれに従い、服従します。クルアーンにおいて神はこう述べます。
“あなたがたは自分の虚しい願望を、神様として崇めている者を見ないか。”(クルアーン25:43,45:23)
キ リスト教徒たちは、まず預言者イエス・キリストを神の同位者とすることによって彼に創造主の特質を付属させ、そして彼に「神の子」という称号を与えること によって神の人格であるとしました。一方でヒンズー教徒たちは、アヴァターラと呼ばれる化身により、神が時代を通して人となり、そして創造神ブラフマー、 維持神ヴィシュヌ、破壊神シヴァの3神によって神の特質を分割させました。
またシルクは、人が神への愛情以上に被造物を愛したり、信頼したり、怖れたりする場合にも発生します。最終啓示において神はこう述べます。
“だが人びとの中にはアッラーの外に同位の者を設けて、アッラーを愛するようにそれらを愛する者もある。だが信仰する者たちは、アッラーを激しく熱愛する。”(クルアーン2:165)
こ れらに類似した感情が被造物により強く向けられると、人は他人を喜ばせようとする努力のあまり、神に背きます。しかし、神のみがあらゆる被造物よりも愛さ れ、怖れられるべきであり、人間による完全な感情的な献身に値するのです。アナス・ブン・マーリクは預言者(彼に平安あれ)が次のように語ったと伝えてい ます。
“誰であれ、次の3つの性質を有する者は信仰の甘美さを味わうのである。何よりも神とその使徒を愛する者。神のためだけに他人を愛する者。そして神に救済された後に不信仰に戻ることを嫌い、業火に投げ入れられることを嫌う者。”(アッ=スユーティー)
人 が他人やその他の被造物を愛する理由の全ては、神の被造物よりも神ご自身を愛すべき理由に当てはまるのです。人は生命と成功を愛し、死と失敗を嫌悪しま す。神こそが生命と成功の究極的源泉であり、神こそが人類による完全なる愛情と献身に値するのです。人はまた、自身にとって有益な者や、必要なときに助け てくれる者を愛します。あらゆる利益(7:188)や助け(3:126)は神から来るものであるため、神こそが何にも増して愛されるべきなのです。
“あなたがたは、仮令アッラーの恩恵を数えても、到底数え尽くすことは出来ない。”(クルアーン16:18)
し かしながら、人が神に対して感じるべき究極の愛情は、被造物に対しての感情的な愛のようなものに低められてはなりません。人が動物に対しての愛情を他人に 持ってはいけないのと同じように、神への愛は人間がお互いに感じるような愛を超越したものでなければならないのです。根本的に言えば、人による神への愛情 とは、神の法への完全なる服従としてあらわれるような愛でなければなりません。
“あなたがたがもしアッラーを敬愛するならば、わたし(預言者)に従え。そうすればアッラーもあなたがたを愛でられ、あなたがたの罪を赦される。」”(クルアーン3:31)
これは抽象的な概念ではありません。なぜなら人による他人への愛も同様に従順さが求められるからです。つまり、もしも人が愛する者から何かを求められた場合、人はその人物への愛情の度合いに基づいてそれを果たそうと努力するからです。
神 への愛情は同様に、神によって愛される人々に対しても表現されるべきです。神を愛する人が、神によって愛される人を憎むこと、または神によって憎まれる人 を愛するということは考えられないことです。預言者(彼に平安あれ)が次のように述べたと教友アブー・ウマーマは引用しています。
“神のために愛し、神のために憎み、神のために差し控え(、また結婚す)る者は、自らの信仰を完璧なものとしたのである。”(アッ=スユーティー)
正しい信仰を持った人々は、神を愛する全ての人々を愛するでしょう。マリヤム章において、神は誠実な信仰者たちの心のなかに愛情を植えつけることを示しています。
“信仰して善行に励む者には、慈悲深い御方は、かれら(信仰者たちの心の中)に慈しみを与えるであろう。”(クルアーン19:96)
また、アブー・フライラは神の使徒(彼に平安あれ)が次のように語ったと伝えています。
“も し神があるしもべを愛すると、かれは天使ガブリエルにその人物を愛していることを伝え、ガブリエルにもその人物を愛するように言い、ガブリエルもその人物 を愛する。そしてガブリエルは天国の住民にこう呼びかけるのだ。「神がその人物を愛しているから、彼を愛しなさい。」そして天国の住民も彼を愛する。それ から彼は地上の人々による愛情を認められるのである。”(サヒーフ・ムスリム)