イスラームへの改宗以前、私はユダヤ教徒として暮らしていました。私の家族は伝統的ではありませんが、 私自身は伝統的ユダヤ教徒から宗教について学びました。私は伝統的ユダヤ教のシナゴーグと、伝統的ユダヤ教学校に通いました。私は現在も、多様性の乏しい 米国のユダヤ教徒の地域に住み続けています。私の人生におけるユダヤ教の影響の強さから、私には非ユダヤ教徒の友人が一人もいませんでした。しかし一年程 前から、インターネットのチャットでムスリムたちと会話をするようになり、自分の宗教だけでなく、他の宗教を学ぶことに対する強い興味を持ち始めました。 私は、それがユダヤ教とそれほど異ならないことから、イスラームに特別な関心を持ちました。これらの宗教は同じ預言者たち、倫理観、価値観を共有します。 最も重要なこととして、同じ神アッラーを崇拝しています。イスラームについては、それが平和的な宗教であることも知っていましたが、全くの先入観がなかっ たとは言えませんでした。幸い、私は多くのムスリムとオンラインを通して知り合い、私のガールフレンド1もその中の一人でした。彼女は私にとって、イスラームへの導き役でした。彼女が私にイスラームの扉を開けさせたのであり、アッラーこそは全てを司る御方なのです。
私 はこの信仰について、深く掘り下げてみるみることにしました。そしてそうすることによって、私は自らの宗教に欠陥があることに気付きました。旧約聖書で は、偉大なる預言者アロンが、考え得る最悪の罪を犯したことになっています。シナイ山からトーラーを持ち帰るモーゼを待つ間、彼は人々からの圧力によって 偶像を造ったのです。
偉大なる預言者がなぜ、それを犯すよりは死を選んだ方が良いと言われる程の3 つの罪の一つに数えられた、極めて重大な罪を犯すというのでしょうか? クルアーンでは、モーゼは山から降りるとユダヤ教徒たちが金の仔牛を崇拝している のを見ます。まず彼は、それはアロンが造ったものだと思い、彼に怒りを覚えます。後に、彼はその偶像を造ったのが他のヘブライ人であることを知ります。こ の逸話からは多くのことが学べます。
神によって導かれた 国民は、そのような罪を赦されるのでしょうか? この逸話に対する私の意見は、イスラーム的見解と一致します。それは、旧約聖書が時代と共に改竄されたと いうものです。過去には多くの腐敗したコハニーム(エルサレム神殿の祭司階級)が存在していました。彼らが宗教実践をより容易にし、職業的聖職者としてよ り少ない時間でより多くを稼げるよう、ユダヤ教に改変を加えたということは、容易に想像出来ることです。
私がイスラームに傾いた別の驚くべき要因は、クルアーンに記されている科学的事実です。クルアーンは、科学によって発見されるよりもはるか以前に、人間の胎児の発達過程について言及しているのです。
“わ れは泥の精髄から人間を創った。次に、われはかれを精液の一滴として、堅固な住みかに納めた。それからわれは、その精滴を一つの血の塊に創り、次にその塊 から肉塊を創り、次いでその肉塊から骨を創り、次に肉でその骨を覆い、それからかれを外の生命体に創り上げた。ああ、何と素晴しいアッラー、最も優れた創 造者であられる。”(クルアーン23:12−14)
クルアーンはまた、いかに山々が形成されるか、そして大気圏の各層にまで言及するのです!これらは科学による発見よりも前に、1400年以上前からクルアーンが述べる多くの科学的事実のほんの一部なのです。
こ れから述べる次のことも、私が人生における真実を探し求めるきっかけとなった要因の一部です。アラビア語で「イスラーム」という単語は、「服従する」を意 味する「サラマ」という語根から派生したものです。「清浄」「平和」も同じ語根から派生します。人は、唯一にして最も慈悲深く、慈愛に満ち溢れた御方であ るアッラーに服従するのです。一方、他宗教は人名にちなんだ名称となっています。ユダヤ教はユダ族にちなんでおり、キリスト教はイエス・キリストにちなん でいます。「イスラーム」は動詞に基づいた単語であり、アッラーに従い、すべての預言者たちを信じる者は、真のムスリムなのです。旧約聖書で述べられてい る多くの預言者たちは、ユダヤ教・ユダ族よりも以前から生きていました。彼らは神に従っていたため、皆ムスリムだったのです。そして私たちも、偉大なる人 間だった預言者たちが生きたように生きるべきなのです。
私の若い年齢 と、ユダヤ教徒のみの地域に住んでいるという状況から、私の信仰が受け入れられる可能性が薄いということは明らかでした。私の両親と親類は非常に礼儀正し いですが、もしも自分たちの息子がイスラームに改宗したとなると、どう反応するか分かりませんでした。それゆえ、今現在は完全にイスラーム的な生活をする ことは出来ていませんが、私は一日五回の礼拝を行い、オンラインでイスラームを学び、唯一なる神を信じ、そのことを表現することが出来ています。アッラー に讃えあれ。ただし、非常に困難な事柄も存在します。ムスリムたちや中東のことに関する議論になると、私は他の人々よりも感情的になってしまいます。イス ラエルに関する話題になると、家族全員はイスラエル支持かつパレスチナ人に対して起きている真実に関して全くの無知ですが、私はパレスチナ人に公正な処遇 がされることを望んでいます。そして彼らがイスラエルの現状、特に「ユダヤの聖地」「約束の地」などの概念について語り出すと、私は容易に怒ってしまいま す。
私は両親に自らのイスラーム改宗について打ち明けていないため、モスクでの礼拝に参加することが出来ません。既述したように、私の住んでいる地域は多様性に乏しく、最寄りのモスクも非常に遠いのです。私はまだ証人の前でシャハーダ2をする機会にも恵まれていませんが、最も良き証人であるアッラーの前でそれを行いました。一年後には(運転免許を取れる)16 歳になるので、自分でモスクへ運転して行けるようになると思います。インシャーアッラー(もしアッラーがお望みであれば)。最も重要なのは、人として成長 することです。私はドラッグを取ったり、ポルノ鑑賞をしたり、飲酒や窃盗をする友人たちを避けるようにしています。親しい友人たちを避けるのは必ずしも容 易ではありませんが、私はアッラーのために最善を尽くしています。そして時の経過と共に、私の人格がアッラーが望むようなものと一致するよう願っていま す。
クルアーンについて学ぶときは、それを独学で行わないよう、私はお勧めします。偏向的なウェブサイトを参考にしても、クルアーンの一つの節が意味するところの包括的な意味を理解することは出来ないからです。
私 はこれら一連の経験から、自分がイスラームを新たに発見したのではなく、イスラームを再受容したのだということに気が付きました。私は改宗をしたのでもな く、復帰したのです。それは暗闇から明るみへの旅であり、私をより強く、より精神的に、そしてより良い人間にしたのです。アッラーが私をお導きになった真 理へ、私たちすべてをお導きになりますよう。
アシュハドゥ・アッラー・イラーハ・イッラッラー、ワ・アシュハドゥ・アンナ・ムハンマダッラスールッラー!3