このことを明らかにするのは、私にとって簡単なことではありません。なぜなら、過去の私の人生を思い出すことはとても胸の痛むことだからです。しかし、アッラーが私の人生にある今、私は勇気を持つことが出来ます。
慈愛遍く慈悲深きアッラーの御名において。
全世界の主、最も慈悲深き寛大なる御方、審判の日の支配者であるアッラーに讃えあれ。諸預言者・諸使徒の長であるムハンマド、そして彼の家族と教友たち、また復活の日までその道に従う者たちに平安と祝福あれ。
私 はフィリピン・カガヤン州の小さな町、リサルの出身です。私は異なる宗教を持つ両親によって育てられ、父親はローマカトリック信者、母親はプロテスタント 信者でした。私はどちらかというと父の宗教を好みましたが、以下のような疑問を抱いていたため、決して宗教的とは言えませんでした。
· なぜ自らの罪を牧師に告白し、彼から神の赦しを求めてもらわなければならないのか。
· なぜ直接神にではなく、聖人に祈らなければならないのか。
· 神はどこにいるのか。神は人間のような存在なのか。
· イエスは本当に神の子だったのか。
· なぜバイブルには多くの異本があるのか。
· 死後に私を待ち受けているものは何なのか。
長きに渡り、私はただ自分が時間を浪費しているだけだと感じていました。私は真理と、(神と共の)人生の正しい道を知りたいと願っていました。
私が12歳の時、父は彼の叔父(私の祖父の兄弟)を殺した容疑で逮捕・起訴されました。彼ら同士の相続権に関する問題が原因でした。私は彼がやったのではないことを確信しています。彼らは父が相続することを望んではいなかったのです。
私たちには弁護士を雇うお金がなかったため、父には懲役7年の有罪判決が下されました。父は収監態度が良かったため、5年で釈放されました。彼が収監されている間、私たちの養育は母にとって重荷でしたが、周囲には世話を焼いてくれる良い人たち(母方の叔父と叔母)がいました。
ちなみに、私は5人兄弟(4女、1男) の三女です。経済的困難から、私は高校を卒業するに留まりました。卒業後、私の叔父(父の兄弟)は仕事を探すために私をマニラに連れて行きました。神の助 けにより、私はすぐに本屋で仕事を見つけることが出来ました。私は収入の一部を母に送りました。一年半後、友人の一人が海外で働くことを勧めてきました。
一週間後、彼女は代理人を紹介してくれました。彼らは私の証明書類を求めたため、それらをすべて集めて提出しました。一ヶ月後、彼らは私が健康診断を受けることを求め、神の愛と慈悲により、私はそれに合格しました。2週間後、私はクウェイトに旅立ちました。
親切で思いやりのある雇い主だったことに、私は心から神に感謝しています。3年後、私は給料の増加を求めました。しかし夫人がそうする余裕はないと告げたため、私は別の仕事に就くための解雇を求め、幸いそれは認められました。
それから私はハイタン付近のビリヤード場で仕事を見つけました。そこで私はインドネシア人の、アッラーの信仰者と出会いました。彼女にはとても強い信仰心が備わっていました。彼女の信仰心や素振りは、私にイスラームのことに関する本を読ませるきっかけとなりました。
私 はイスラームが、勉強に値する程の宗教であるとは思いもよりませんでした。私の友人たちの大半はキリスト教徒でしたし、私たちは教会に行ってよく祈ったも のでした。空虚な心の中で、私は神の存在を感じ取ることは出来ませんでした。私は自分を完全に見失っており、そのことは正しい道を探すことにおいて拍車を かけました。それゆえ私はタガログ語版のクルアーン翻訳本を購入したのですが、それを2ページ以上読み進めることが出来ませんでした。そのため、それを一旦脇へと置き、イスラームに関する本や冊子を買うことにしました。しかし、独学で理解することを断念し、クウェイトのラウダ地区にある、IPC(イ スラーム・プレゼンテーション・コミッティー)を訪ねてみることにしたのです。彼女らは皆、暖かく歓迎してくれました。それは私にとって初めての、イス ラームを信仰する女性たちの集まりとの遭遇でした。自分でも驚いたのですが、私は自分が完全なよそ者であるかのように感じました。それから私はイスラー ム・クラスに出席するようになりました。レクチャーの一分一秒、本の一ページずつが、私にとっては啓示のように思えました。それは、それまでに感じたこと のなかった大きな精神的満足感を私に与えてくれましたが、イスラームへの改宗についてはまだ決断し切れませんでした。
2004年の6月6 日、私はイスラームに改宗する決意をしました。私は法廷で信仰証言(シャハーダ)を行いました。それは私にとって本当に素晴らしい経験でした。法廷にいた すべてのムスリムは私を固い握手で歓迎してくれました。そのとき、私は自分が正しい道に導かれたのだと確信しました。それは、私の人生のなかの最良の決断 でした。イスラームに改宗してから2年後、私は姉妹の結婚式の出席をきっかけにフィリピンに帰国しました。
他 のムスリムたちから遠く隔たれたその土地(私の故郷)は、私にとっての大いなる試練でした。私はミニスカートや半袖ブラウスなどといった、以前の衣服を着 ることへの欲求を制御しなければなりませんでした。アッラーは、私たち(ムスリム)が自らの美を(家の中で)夫以外の男性にさらけ出すことを禁じられたた めです。
3ヶ月が経ち、(ムスリムたちから遠く離れた)その僻地で宗教的な生活をすることは非常に困難なものとなりました。そのため、私は急いでクウェイトに戻り、イスラームについてより多くのことを勉強しようとしました。
イスラームは私に、ヒジャーブを着て、イスラーム的な服装をすることの重要性を理解させてくれました。当初、私はそうすることに抵抗がありました。しかし私は日々の経過と共にそれに徐々に慣れ親しみ、今ではアバーヤを身につけている程です。
イスラームは、私が家族または友人と共に、外出の毎に化粧をする欲求を減らしてくれました。
イスラームは、私が自分自身を守り、いかに悪行(フィトナ)を阻むべきかを教えてくれました。
イスラームは、私に真の意味での姉妹愛・兄弟愛を教えてくれました。
イスラームは、私が自分自身の行為と思考に慎重を期すようにしてくれました。
ヒジャーブやイスラーム的服装をする信仰者の女性は、天使のように美しいのです。アッラーのために覆い隠すものは、その価値を増幅させます。言い換えると、女性が身体を隠すことは、信仰者の男性にとって魅力が増すことなのです。